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ルソー教育論 〜現代社会の子どもたちに『エミール』を実践するとどうなるか

真田 圭

 

 

1.なぜ、『エミール』か?――テーマ設定の理由

 

 そもそも、私はルソーといえば、『社会契約論』という著作しか知らなかった。ところが、この講義でルソーは『エミール』という教育論も教示していたことを知り、教育に興味があって教育学部に入学した自分にとって、どのような教育をルソーは理想としたかについて興味を持ち、今回、『エミール』について調べてみることにした。実際に『エミール』を読んでみると、ルソーは、幼い時はこのように接し、青年期はこのように接するように、というように実践的な教育論を展開していることがわかった。そこで、ルソーの生きた時代とはまったく環境の異なる現代に生きる子どもたちが、ルソーの考える教育を行った場合、どのようなメリット・デメリットがあるのかというところに重きを置いて、さらに現代の教育行政の問題について、以下、考えてみることにした。(内容の一部は『エミール』に関する講義の小レポートの内容と若干重複するところもあるが、留意されたい。)

 

 

2.『エミール』の理解できる点

 

 『エミール』を読んだ上で自分が納得のいくところに、束縛をしないという意味で、子どもを「放置」している、ということが挙げられる。新生児の教育に対して、ルソーはこう述べている。

 「新生児にはその手足を伸ばしたり、動かしたりする必要がある。・・・子どもの手足を

動きのとれない状態にし、束縛しておくことは、血液と体液の循環を阻み、子供が強健になり、性長するのをさまたげ、体格を悪くする以外、何の役にも立ちはしない。」(21項)

 この考えにのっとり、ルソーは体を締め付けるような、頭巾なども必要はないという。新生児はまだ話すこともできなければ、歩くこともできない。そんな活動が限られる中で手足を動かすことでさえも制御されれば、赤ん坊はたまったものではないだろう。ではなぜ、人々は束縛するのか?…それはのちに議論しよう。

しかし、大人は子どもを「束縛」することで、子どもを危険から守っていると考えている。いうなれば、「死を防ぐ」教育をしているということだ。その面についても、ルソーは言及する。

「人は子どもを保護することしか考えない。・・・かれを生きさせることにたいせつなのにくらべると、死なないようにとの心配など問題にはならない。生きること・・・それは活動である。・・・生きているという意識を与えてくれる心身のあらゆる部分を活用することである。」(20項)

つまり、新生児にとってみれば、手足を単に動かすことも生きることの一環なのだろう。

そして、ルソーは必要以上に子どもたちを教育しないように説いている。特に話し方(文法)については、以下のように述べる。

「子どもたちは、いわば、子どもたちの文法を持っていて、・・・大人の文法よりも適応範囲の広い規則があるのである。・・・小さな間違いは、時がたつにつれて、子どもたちが、かならず自分自身でなおしてゆくものである。こどもたちの前では常に正しく話しなさい。・・・そうすれば、子どもたちの言葉は、叱ったりしなくとも、あなた方の言葉を手本として、知らず知らずに、おのずから正しい使い方に改まっていくと確信してよろしい。」(54項)

これは文法によらず、様々なことで言える。そもそも、子どもというのは社会についてほとんど何も知らない分、純粋に、素直に物事を見ることができる。以前、朝日新聞の朝刊に載っている「天声人語」(編集後記のようなものである。)を見たとき、このような記述があった。―――友だちの風船が空へ。母は「かわいそうねえ」と常識に従うが、子は「でも雲は喜ぶね」(朝日新聞『天声人語』2009年6月11日より)―――これは子どもが大人にはない発想をもっていることを示している。子どもは大人のように様々な知識を詰め込んでいない分、柔軟な発想ができるのだ。だから幼児期は余計な教育を施さず、子どもの自主性を育てるために見守るべきであるのだ。

「子どもの時代を尊重しなさい。そして、よいことであれ、悪いことであれ、性急に判断を下してはならない。例外的なものも、それに対し特別な方法を採用する前に、それがおのずから明瞭になり、証明され、確認されるまで十分な時をかしなさい。」(99項)

 但し、子どもたちの行動の仕方については、身のまわりの大人がかなりの影響をしめる。ルソーも述べていたとおり、まわりの大人を見本とするのである。それを見ながら、子どもは間違っていることに気づき、改めていく。そのため、大人は答えを指示してはいけないが、答えとなる模範でなければならない。

 

 

3.『エミール』の理解できない点

 

 私はどちらかというと、ルソー支持派であるが、すべてに納得しているわけではない。ルソーと私との考えの相違のひとつに、「書物の破棄」というのがある。

 「読書は子ども時代にとっての災厄だが、しかも人が子どもに与えることができるほとんど唯一の仕事になっている。(中略)読むことが役立つようになったら、かれ(エミール)は読むことができなければならない。しかしそれまでは、読むことは彼を退屈させるだけだ。」

 本には、作者の意図する主張が書かれている。その考えを理解する能力は子どもの段階で身につけなければならない。はじめは自己の感性に任せて自由に振舞ってもいいかもしれないが、徐々に自分と違う考えを持った人間がいることも認識しなければならない。

 次に、『エミール』には、教師の立場から指導論を述べたところがある。

 「生徒が学ぶべきことをあなたが提示してやる必要などはめったにない。・・・生徒の方からこそ、それを望み、・・・発見しなければならないのだ。あなた方のほうは、それをかれの手の届くところにおき、巧みにその欲求を生じさせ、それを満たす手段を提供するのが役目だ。・・・学んでいるものを理解し、・・・効用を理解しさえすればよいことなので、・・・かれに有益な説明を与えることができなくなったら、・・・こう言いなさい。「わたしは、君の問いに十分に答えることができない。・・・これはこのままにしておきましょう。」(P189)

 このような教育を行うとどういうことになるのだろうか。以下で考えてみよう。

 

 

4.現代社会の子どもたちに『エミール』を実践すると・・・

 

 上記で考えた、『エミール』の長所・短所を踏まえた上で、現代社会の教育にこれらが適合するかどうか検討してみる。

 はじめに、ルソーは、新生児を「放置」するという方針を述べていると説明した。確かに、新生児の唯一の動きと考えてもいい手足の動きを束縛して抑えるということは、新生児の自由を奪うことになる。しかし、ルソーの生きた当時と比べて、現代は道具が非常に発達し増えている。道具が便利になる分、道具は小さくなって、そしてさらに危険になる場合もある。そのような道具が日常生活に普通に流布している現代、あからさまに新生児を放っておくのは非常に危険である。人はけがをして回避の仕方を学ぶ。しかし、新生児はけがという観念もまだわからない。知らず知らずのうちに大きなけがをしてしまうのだ。また道具も無意識に誤飲する危険がある。そして、知らず知らずのうちにもだえ苦しむ。外界の刺激に対する免疫も乏しい状態で、何でも触れさせることは新生児にとっては致命傷になりかねないのだ。

 そのため、新生児にはある程度の束縛も必要だ。常に大人が見守っている環境が整っていれば、話は別だが、母親であっても、24時間監視し続けるのは物理的に不可能である。それにある程度の束縛があっても、新生児は動ける。乳児用のベッドの中でも手足は動かせる。それに今は安全に乳児が遊ぶことのできるおもちゃもたくさん発売されているのだから、限られた空間の中でかなりの動きができる。

 が、この「束縛」は子どもが成長するに従って、緩めていかなければならない。それなのに、親はいつまでも、子を自分の近くに引き寄せる。外界は危険がいっぱいだと言って、ろくに子どもにその危険さも認識させないで、守ってしまう。いわば、上記で述べたような、「死を防ぐ」教育だ。これは、親だけではなく、学校教育の中でも浸透している。これでは、子どもたちは、「生きる」力を身につけないまま、自立することになるのではないだろうか。

 必要以上に大人が子どもを守ろうとする傾向は子どもが被害者となる事件が増えてきている現代社会において仕方のない面もある。しかし、あらゆる危険を避けさせてしまうと、子どもたちは「危険」が何かわからなくなり、かえって危険な目にあう。危険が起きたときにその身を守る手立てやその危険を避ける方法を子どもたち自身が、学び、体得しなければならないのだ。そのため、社会は過度に子どもを守ってはいけない。たとえば、公園のケースを考えてみよう。子どもが怪我をしたからといって遊具の使用を禁止するのではなく、このような怪我をするかもしれない、と子どもに危険を伝えるのだ。視界が悪くなって、大人が子どもを監視できないからといって敷地内に森林をつくるのをやめるというのもよくない。森林は子どもが危険から身を守るための最高の場所である。いつも家で見る家具のようにニスが塗られている木しか見ていない子どもと、生身の木々に触れ、棘がささり、手がかぶれ、虫にさされ、登って落ちる・・・。このとき、子どもは「痛み」を感じる。しかし、それが教訓となって、後の子どもの生き方に大きな影響を与える。これが「生きさせる教育」なのだ。
 今までは『エミール』の長所に関して考えてきた。では短所と私が考える部分について論じてみよう。

 はじめに、「書物の破棄」についてだが、これは読書を重視する現代の日本の教育の指針とは異なっている。それは何も今日に始まったことではなく、江戸時代から「読み・書き・そろばん」は基本的能力として、教えられてきた。

 このルソーの教育は子供にとって有意義なものとは思えない。字が読めるようになり、自分なりの一定の意見・考えが持てるようになったら、子どもは読書をすべきである。それは何もその作者の考えを自分の中に植えつけるということではなく、自分とは違う考えを持つ人間がいるということを理解し、相手の考えを理解するという上で、必要なことなのだ。ルソーの生きた時代とは違い、さまざまな活字の情報を素早く、正確に処理することが求められる現代では、それができるようになるための読解力を身につけなければならない。その手段は読書にある。

 続いて、教師のあり方について述べたところを考えてみよう。子どもに学んでいることを理解させるのは教師の仕事である。また、これから学ぶべきことを提示する必要はないが、これから生徒たちが学んでいく上で、基礎となる知識を義務教育の中で授けるのは教師のひとつの役目である。その教育のなかで、生徒たちの学ぶ意欲を上げさせることは可能である。しかし、仮に生徒から質問されたとして、それに答えられない教師がいたとしたら、それは無責任な話だ。子どもの疑問をそのまま放置しておくことはとてももったいない。教師もその質問から、学ぶことができるのに、その機会を自分から逃すことになるのだ。「放置」というよりも、先生と生徒が一緒になって答えを検証していくというスタイルの方が望ましい。その方が明確な答えではなくても、子どもが自分なりの結論に至れる方法なのではないだろうか。それに、現代の子どもは教師の良し悪しの基準に対し、鋭い観察眼を持っている。あまり、問題を放置ばかりすると、その先生に聞いてもしょうがないと、ナメられてしまう。

 

 

5.現代の教育行政の改善点

 

 それでは、現代の教育行政でこの『エミール』の方法が実践できるのだろうか。答えはNOだ。その原因としては2つある。

 1つ目に「過保護」概念がある。数ある『エミール』の教育理論において、私が最も感銘を受けたところは、「生きさせる教育」の実践である。この教育を実践するために、過剰な管理体制を学校が緩める必要がある。そのためには、まずは保護者の「過保護」概念を払拭させなければならない。保護者は子どもが自分自身で生きていくことができるように、怪我を教え、その怪我を治療し、またその危険への対処の仕方を教育する義務があるのだ。

 2つ目は、「師の環境」だ。学校の先生は今、生徒とかかわらない部分での事務的仕事が非常に多い。そのため、その部分を補うための事務員を増やすべきだ。そうすれば、先生はその時間を授業の準備に有意義に使うことができる。授業こそ、生徒の学習意欲、また、生徒自身が学ぶべきことを見つけることができる、絶好の機会である。その教育に一番大事な機会に、時間を割けるような環境整備が必要だ。

 

 

. 『エミール』の文献的価値と結論

 

 『エミール』は子どもだけに限らず、大人への教育にも十分応用できる教案書であり、また教育学の古典中の古典といえるだろう。その文献的な価値は大きい。が、ルソーの時代と比べて、現代は、日常生活の水準も高くなり、情報もたくさん流通し、人間自身も複雑多様化している。『エミール』に書かれていることすべてが理想の教育とは言えない。そのような部分を現代風にアレンジし、『エミール』を昇華させて、その『新エミール』を実践したとき、理想の教育が大成される。そして、その教育を実践するための行政整備が今、社会には求められる。

 

 

引用文献

 『エミール』 ルソー著 永杉 喜輔訳 玉川大学 1965年

 朝日新聞データベース『天声人語』 2009年6月11日付